出典:映画「ドクター・デスの遺産-BLACK FILE-」公式Twitter
今日は早朝から娘を模試会場に送り届けに。
そして午後にはお迎えが…。
その時間を何をして過ごそうかと考えていましたが、やっぱり映画かなと。
今はひたすら何回でも伊藤健太郎主演「十二単衣を着た悪魔」が観たい!
でも近隣の映画館では午前中の上映がなく…先週ならあったのにな。
ということで、少し気になっていた「ドクター・デスの遺産」を観ることに。
映画に行くといつも上映前に予告が流れていて、おもしろそうだなと。
テーマは安楽死殺人。
「本人の意思と家族の同意のもと実行される安楽死は殺人と言えるのか。被害者が存在しない殺人は罪に問われるのか。事件の真相が明らかにつれて、捜査する側の正義は揺れ、モラルは崩れ、危険な錯覚に落ちていく――」(公式HP抜粋)
安楽死については現実世界でも世界中で議論されている問題。
余命いくばくもなく、ただ苦しむだけの時間を過ごすのであれば、家族と安らかな時間を過ごして自分が選んだそのときに旅立ちたいという考えには共感する部分はある。
そういった立場になったことがないので、想像でしかないけれど。
自分が旅立つ側なら死を望むかもしれないけど、家族側であれば全力で反対してしまいそうだし。
「人には生きる権利と死ぬ権利が平等にあるのです」
この言葉を信念として、映画の中では次々と安楽死殺人が行われていく。
今の日本では安楽死は許されてはいない。
“死ぬ権利”
この言葉は重い。
医師の手を借りるか借りないのかの差?
何も変わらないと思う。
死と直面した患者は、そのときが近づいているとわかっていてもやはり死にたくないという思いを心の中に抱えている。
それでも“家族に迷惑をかけたくない”
ただその一心で死の恐怖と闘い、自ら安楽死殺人の被害者となる道を選ぶ。
でもそれは家族にとって、有難迷惑。
どのような亡くなり方であっても、家族は大切な人を失った哀しみからは逃れられない。
それでも病と最後まで戦い抜いて、旅立ったのであれば、時が癒してくれるかもしれない。
でも家族のためにと安楽死を選んだのであれば・・・
家族は自らを責め続けるだろう。
自分たちのために死なせてしまったと。
一生、その死から逃れることができなくなる。
それが本当に家族のためになるのだろうか。
「人には生きる権利と死ぬ権利が平等にあるのです」
権利はもちろんあるけれど、生も死も決して個人だけのものではないということを忘れてはいけない。
命はその人を大切に想うすべての人のもの。
という綺麗ごとはきっと自ら死に直面したことがないから言えるのだとは思うけれど。
この物語は、安楽死という言葉に囚われた者たちを自らの欲望の犠牲とするサイコパスとの闘いが主軸。
自ら死を望んでいるのであれば殺してもいい。
死なせてあげることが正義。
人を殺したい人間と死にたい人間のWinWinの関係。
それを認めるか否か。
きっと正解はないんだろうな。
自らの欲望を満たすサイコパスは絶対悪のようにも思えるけど、どうしても死にたかった人にとっては楽に死なせてくれる神の存在であったでしょうし。
結局、みんな死というものに囚われているのでしょう。
幼い頃、初めて”死“というものを理解し始めた頃、自分の存在が消えてしまうのかと思うと怖くてたまらなかった。
でも今は永遠に生きることの怖さも知っている。
命あるものすべてに平等に訪れる死があるからこそ、輝ける生があるとも思える。
もちろんまだまだ死にたくはないし、怖いけれど。
と話の本筋とは少しずれたことばかりを考えてしまう映画でした。