つれづれなるままに~じゃないけどかたりたい

映画やドラマについての思いを語ります。伊藤健太郎くん多めです。

舞台「背信者」〜両視点 第1号〜

舞台「背信者」の

配信観ました。

両視点を観ての感想をちらりと。

 

自分の見方は浅いんだろうなぁと

感じていて、つれづれするのも

ハズカシイかなとも思ったけど、

やっぱり好き勝手には語ってみたいので

つれづれと。

 

 

***ネタバレあります***

 

あかん…根本から捉え方間違ってた…。

 

CAESARはすでに300年前から

存在して、紙媒体だから

失われなかったっていうのが

前提なのに、

そこをすっ飛ばしておりました。

 

舞台視点で3回も観たのに、

それに気づかず、

自分勝手に思い込んでる自分が

怖い。。

 

「百科事典の1冊でも

 残っていれば」

 

の台詞にやられました。

 

知識のすべてが失われたと

思っていたけれど、

CAESARは残っていたんですね。


何が紙媒体で、

何が電子媒体だったのかは

わからないけれど、

ビッグクラックによって

残すものと残さないものの選択。

結局はそれすらも操作されていたのか。

 

舞台視点で、感じたこと。

クスノキが求めた真実とはなにか。

真実なんてどうとでも変わりゆくもの。

真実と思っていたものは

根底から覆ることもある。

受け入れた時点でそれは真実となる。

という感じ。

 

配信視点でみると、

真実というものより、

インパクトや認識というものの方が

人にとっては大切というか、

人の中にあるものではないかと。

 

アオタはこう言った。

「認識はそこだけ削ったりできない」

 

真実は真理省によって

コントロール可能だけれど、

一度人が認識した想いは削れない。

 

スナカメは社会から抹殺された

カメラマンのことも写真のことも

覚えていた。

 

シェイクスピアを復元していた

劇団員たちの中にも残された想いが

あったのだろう。

 

イザクラは人に与えるインパクトを

事実よりも重要視した。

 

そこに人それぞれの真実が

あるのではないかと。

 

今、目の前にあるものに

違和感を感じながらも

「生活があるから」

と気づかない振りをする。

 

金魚鉢だろうが、箱庭だろうが、

平和で穏やかに過ごすことができるなら、

それでいい。

受容と諦観。

 

あえて自ら暮らしを脅かす理由など

どこにもない。

 

クスノキが拒んだ

「それでも生きていく」

 

陳腐な答えかもしれないけれど、

結局大多数の人間が望むことは

こういうことじゃないかと。

 

舞台視点と配信視点…

相反するものがあるとか

全く違うお話になるとか

聞いたけど…

 

両方観ても、私には

素直な一つの物語にしか

みえてませんー(泣)

 

ラストも普通にストンと落ちたし、

いろんな伏線も回収されて

スッキリ~って感じなんです。

 

オープニングは

単なる繰り返しなのか

深い意図があるのか

捉え方は変わるなとは思ったのですが。

 

きっとまだ多面的に

見えてないんだろうな…。

 

でも全体的に感じたことは

配信のほうがわかりやすいなと。

 

舞台だと、

どうしてもクスノキに目が行ってしまう。

イカンと思って物語を追おうとしても

舞台の端のクスノキを見てしまう。

クスノキ主体に物語を捉えてしまう。

 

だって目の前に生健太郎なんですもの。

それは仕方がない…

それも舞台視点ならではの自由さかな。

 

配信は物語に合わせて

シーンを切り取ってくれる分

邪念が入らず、物語を導いてくれる。

 

その分作り手の意図の入り方は

深くなってしまうけれど。

 

また言葉も面白かった。

 

「無知は力なり」

「真実の本質は未知なり。

 我々はまだ何も知らない」

 

この言葉だけでしばらく語れそう。

 

クスノキとキリエの関係性も好きだし、

まだまだ好き勝手に

語れるタネはたくさんありますね。